合縁奇縁

昔から「合縁奇縁」というようにそれぞれに出会いがあり、別れがあると思ってきた

今この世界的なパンデミックの社会に生きる私たちこそそれを気づき学んでより意味

するところのたいせつさを感じているのだろう。

それと共に最近よく思い出されるのは、中途失明後に知り合った先輩と議論して彼が

言っていた格言の意味するものを思い出すのである。

それは、人間が与えられている、感じることができる「幸せの数量」と「合縁奇縁」

の関係である。

先輩は、それは人によって異なる感受性みたいなもので一定ではないが、ふれあい気

づき学ばされる人との出会いの数量が一定程度あればカバーされるという自説であっ

た。

私はその両方すべてが、神様なり目に見えない力で一定程度が与えられているのでは

ないかという生前説的な環境的視点からの議論になるのである。

大阪の片隅の居酒屋で、中途失明して数年で、視覚障害リハビリを受ける施設の居酒

屋の全盲の視覚障碍者同士が、こんなことを議論していたのである。

それだからこそ、お互いの結論は、一生涯に他者と知り合える数量的なものは、ある

程度限られていると感じるということであった。

根本的に幸せは人間が築きあげた価値観であり、それを充足するものであらねばなら

ないし、個人差も大きいのだけれど、そのスタートになる「合縁奇縁」が重要なきっ

かけを限定され少なくさせられているのである。

だけど、それらは我々人間が、気づいて感じて触れ合うことでの実体のないものであ

るから、それを見えない感じえないウィルスのパンデミックでの禍は人間的なものな

のであり、それを死んでいく者たちで満足して納得できていくためには100年前の

スペイン風邪の物語や

「ペスト」を読んで感じなければならないのだろうかとも考えた昨日である。