思いでぽろぽろ
静寂に包まれているからかもしれないけれど、何となく普段着でいたい僕でいたいと
いう気持ちから書いてみたい。
今日は1月27日である。明日は28日である。阪神淡路島大震災からの十日余りの
この次期は、暦のうえでは厳寒の季節である。
これは僕の身体への感覚的なものだけでなく、精神的にもこだわりの時期になる。
それは、誰もが日常生活に流されていく時間の中に、いつのまにか忘れたふりをして
いる傷ついた思いの蓄積であることに気づくからだ。
単に体験した思い出の中にいるだけのことではない。苦しんできた事実の中の自分が
いることにいやおうなく気付かされるからだと思う。
大きな事故から生き残った者としての恥ずかしさと言うか覚悟と言うか情けなさと言
うか、表現のしにくい気持ちになるからである。
第2次世界大戦や大災害や大事故からの生き残りの者たち、それを体験したり、影響
を受けたりしてきた人々、みんなが、そんな感情を押し隠すか持て余して毎日を生き
続けていることを身に染みて知るこの毎日であるからだ。
感染症が流行して1年になるというが、僕も仕事をしない時期が1年になろうとして
いる。だから自分を見つめたり振り返ったりすることの時間もいやというほどぐずぐ
ずするくらいに埋もれてしまうほどたくさんある。
そうした中でも本日パソコンに残っていた15年ぐらい前からのメールを整理削除し
ていく中で、友達や仲間や知り合いや恩師や家族や僕を取り巻く多くの人たちの思い
や感情が見て取れる時間が3時間余り経過して懐かしくもピリピリと気づくことにな
った。
そんな時間の中からは、一生懸命に生きていた僕が見て取れない情けなさと、あせり
と葛藤があったこともわかることが、こうした振り返りの時間の使い方の悲しいぜい
たくさを知るのである。