今の思いを文章にする。

「潮流」

アメリカ人牧師のトマス キャロルは、その著書「失明」の中の、心理的安定に関連

する基本的な喪失の中に、目立たない存在であることの喪失を挙げている。

私自信が視覚障碍者になった時に、その全体像、生きている姿が目立つことにならざ

るをえない存在として現実社会に浮き上がってしまったのだ。それは、目立たなく生

き続ける、平凡な人生を志向していきたいという希望をどこかで自分自身の存在意義

を示したいという事故的な欲求と自己覚知とのはざまで、障害上に受け入れなければ

ならないどんずまりに追い込まれたネズミの心理状態に似た窮屈なものの考え方に陥

ってしまったという感覚のもとにあるからだろうと思い続けている。

でも、この社会全体が見えないウィルスにほんろうされている霧の中の現実社会が「

失明」であらわされているいくつもの喪失の浮き上がらせてきたものの理解にぶち当

たっているようにも思えてくる。私自身それほど視覚障害と言うしがらみと深刻な対

応を取ってきてはいないのだけれど、もっと何らかの形で向き合える機会と力を持っ

ていかねばならないのかもしれないが、もともとの性格での秘密基地で隠れて動くと

いう感覚と忍術の同化していく面白さの中にいたいという気持ちも強い。

本日のニュースで、石垣島の海岸に、9年半前の東日本大震災で流された岩手県宮古

市漁業協同組合のコンテナが漂着して発見されたというのを聞いた。発見者が驚き、

美しい砂浜に流されている漂流物の姿に背景にある悲惨な歴史を見て悲しさを感じた

という。

私は海から流れてくるものは物体でもあれ感染症でもあれ、サービスでも法律でも情

報でも何らかの流れに乗ってくるということだと言える。日本が島国だからではなく

、流れはどこからか浮き上がって沈んで動いているものだ。時流かもしれない。流れ

があることはせき止めてふれてわかるのかもしれないが、それは感じ考え発見したも

のが理解と証明のもとにわかるのだろう。

だから海辺に座って波を見つめるだけで、つながっている向こう側のすべてのものに

たどり着き行きつくことがあるとが言える。

だから潮流は何かを伝え残す動きだと思う。それをどう考え理解して自分の中に消化

できるかであるのかな。