復活復権・リハビリテーション
私は視覚に障害を持っている。中途失明者である。そうした状況に置かれるとリハビ
リテーションと言う偉大な当事者とサポートする人々の協力した活動や取り組みの崇
高さにも似たときめきも感じる。
老人保健施設に入所した父親とリハビリテーションの意味について話したことを思い
出す。
「ここはどういうところかな?」「老人保健施設と言ってリハビリテーションをする
施設だよ。」「リハビリって何だ。」「うーん、運動や訓練をして身体機能を元気な
時のように、まあ生活ができるようにするところかな。」
「わしがこんなぼけた老人がリハビリと言うことの意味があるのか。わからん。」「
このままで何もせずに衰えていくことは寂しいだろ。」「それが人間に与えられた運
命だ。自然なことだろ。」「そういう考え方もあるけれどリハビリは生きるエネルギ
ーを回復させるものなんだよ。」
「回復ってそんなに必要か?生活するためには動けた方がいいけれど年齢相応の体や
心でいいじゃないか。」「そうだね。回復と言うより再生というか復活する気持ちや
体に向かっていく気持ちと努力かもしれないね。」「まあできるだけぼけない心と、
だめにならない体に気を付けていくかな。」「まあぼちぼちやってもらえればいいけ
れど、1日1度はなにくそと思うこともあっていいよ。また畑ができるといいね。」
「そうだな期待せずに待っていてくれ。」「握力はまだまだすごいね。」
こうした会話が毎週面会にいったときにあったことを思い出す。
私が失明して日本ライトハウスで訓練を受けていた時に、担当の先生が、「リハビリ
は、何度も何度も根気よく行うもので、どのぐらい当事者にもとの自分にもどれるか
、戻ろうとする意欲が起こるかと言う人間回復のための過程ということだ。わかりや
すく言えば、ざるで水を汲んで桶を満水にしようとしているようなものだね。まるで
今の我々のようだ。サポートする俺にもがんばれるかどうかのおまえにもどちらにも
いえることだよ。」と言われたことも思い出す。
だから自分に悔いのないリハビリができたと思えるようながんばり(初期)を続けら
れればいいなと願ったものだ。