新型肺炎ウィルスと私

人間は、物が見える、音が聞こえるというという基本となる機能を有している人が大

多数である。

私はそうではなく、人生の中途から視覚に障害を持つ悩みを持つものとなった。

見えない私は、見えるとか見えないとかにこだわって生きていかねばならない運命で

ある。

私は見えない「者」として見える世界にこだわり抵抗して恭順して見えることへの調

整をしながら活動をしている。

単に生きていくための何かを渇望している姿を自分の頭の中や他者の網膜に映し出し

ているに過ぎない。

新型肺炎ウィルスについて、それ自体は見えない(物」であるのに多くの見える「者

」は見えない故に恐れるに足りている。

それはそうである。見えない(物)への恐れや畏怖は極論ではあるが、神に人が崇め

奉る勘定と同じではないのか。

「だからどうなのだろうか」と問うてみる。新型肺炎ウィルスを可視化してもそれは

それで恐ろしいのだけれど100パーセント近くは安心できる人が多い。

それは目に見えることで、事実・証拠として理解できるからである。

今ここでは、見える「こと」へのねたみや偏見や誤解が渦巻いているのかとも思える

が、見えない(者)が見えない(物)に見えないという(事実)で何をかを恐れるに

足りるのかを見える(者たち)について笑うことも差別することもなく見えない(物

)への素直な恐怖にうずもれていくことを自覚することがたいせつだと思ったことは

冷笑に値するだけのように私自身がおかしいのだろうか。

鬱屈している自覚もあるけれど、素直でわかりやすい面もある人間だ。もっとわかり

やすい文章を書ける見えない(人)にはなりたいが。