思い込み人間
何となくいやな気分になるときがある。違和感とか不快感とかと言う感じでもなく、
重たい空気管と言うか皮膚に緊張感が走るようなぞくっとする感じだ。
それが自分に向けられた危険や社会にパニックを起こすものかわからないが、自然や
科学的医学的なものかわからないが、「よくないこと」が起こりそうな間隔を感じて
しまうこともある。
小さいころの交通事故に会う前やスキーバス事故や阪神淡路大震災等を振り返ればそ
んなことがあったような結果論的なところへ無理やり帰着させた感覚似たものである
からかもしれない。
この今直前の現実的な振り返りを見ると何もない、何もなかったことかもしれない。
今この現代社会においてそれを感じることが多くなってきている。「思惑」や「炎上
」や「パニック」や「不安」などが渦巻いている混雑した混迷社会だからなのだろう
と思う。
何が言いたいかと言うと、こんな時に待望されるのが強いリーダーシップのある人間
だ。民衆は迷って動きが取れない時ほど一匹の生き物、時にバッタの、時に人間の声
高に断定的に支持をするものに従っていく受動性、樹液性、体質的な弱さを持ってい
るからだろう。
増殖するバッタやコロナウィルスや欲望や夢やあらゆる量的なものの後ろにはリーダ
ーを待ち焦がれる大勢の目途があるような体制がある。
ヒットラーも田中角栄もスペイン風邪やコレラやペストも結果論的に莫大な影響を地
球にもたらせたかもしれないけれどその尺度は人間の目で見た社会の動きだからなの
だなと思う。
5月か6月の近未来に、今より好転するというより大きな災害をみるような感覚を肌間
に感じるのは悲観論的になっている私だけだろうか?