駄文をつづった後悔

身体を動かすことは動物の本能として当然であるが、何かからの逸脱というか可能性

を探すというか逃れたいことに向かっているかと言う何か得体のしれないことの恐怖

へのエネルギーの中中作業と言うようなものにも思える。

何かにとらわれていたくない、とらわれていても抜け出すという自分の中にある全て

が放出されているようなものではないか。

ラジオ体操や外を歩くこと、走ることやスポーツをすることもその線上にあると思う

亡くなる前に意識があるときには、ベッドで静かに横たわっているときも、どこかで

動きたいという衝動に襲われているのかもしれない。

昨日外に出て歩いているときにふと感じたこと、思ったことなのだけれど、

多分眠っているときにも何らかの動きをしているのだろうけれど、それが第三者的に

身体活動の何を表しているのかを深く感じているのはおかしいことなのかもしれない

このブログを久しぶりに書こうと思ったけれど、あまり材料がなかったので、そうだ

と思って書き始めたけれど後悔した。

途中で、ちょっと哲学的なことも表しておこうかなと自らの虚栄心がささやきかけて

きたので応えておこうかなと思っただけで、読み返すには値しない駄文となってしま

った。

申し訳ない。